「Merry Christmas for you...」 ---------------------------------------------------------------------  ふらりと入った教会、クリスマスに浮かれる街の喧騒が嘘のように静まり返 った別世界がそこにはあった。クリスマスイブを明日にひかえた教会とは思え ないほど静かな教会には、人の姿はなかった。  薄暗い中に、ただ夕日の差し込むステンドグラスだけが明るく輝いている。 鮮やかな色のガラスをまとった天使が窓辺から今にも舞い降りそうな姿で見下 ろしていた。  かすかな木の匂い、冷たい石造りの壁、床を踏みしめる音が小さなチャペル に静かに響く。  友美はひとり一番近くの椅子に座ると、机の上に顔を伏せた。ほんの数分前、 目にした光景が頭のなかに繰り返し蘇る。泣きたかった。どうして泣けなかっ たのかはわからない。ただ、泣きたいのに泣けない、締めつけるような思いだ けが友美の中に渦巻いていた。  どれだけそこにいただろうか、人の気配に友美が顔を上げると、いつの間に かそこには年老いた神父の姿があった。白い髪、小さな眼鏡、友美はふと懐か しいような、どこかで見たことがあるような気がした。 「お祈りですか?」 「あ、ご、ごめんなさい。勝手に入ってしまって・・・」 「構いませんよ。我等が父なる神は、救いを求める者を退けたりはしません。 もちろん教会もそうです」  神父の浸み入るような声に友美はふと目頭が熱くなるように感じた。 「何かお悩みですか?」  手にした聖書の縁を親指でなぞりながら神父が問いかける。友美は力なく首 を振った。 「いえ・・・何も・・・」 「何もないというには、表情が暗いですね」 「そうですか?」  友美は無理に作り笑いを浮かべる。神父の目はそんな友美の全てを見通すよ うにただ静かに見つめるだけだった。  少しだけつらい静寂が二人の間に流れる。  不意に神父が口を開いた。 「主のこんな教えを知ってますか?」  不意の問いかけにどう答えていいか判らず、友美は神父の言葉を待った。 「汝の敵を愛せ、と」  友美は戸惑った。なぜその教えを今ここで持ち出したのか分からなかった。 「聞いたことはありますけど・・・」  年老いた神父は微笑みながら答えた。 「これはね、本当に敵がどうこうという教えじゃないんですよ。あなたが誰か のことを信じられなくなったり、憎らしく思えたときに、あなたが相手の非を とがめたり、相手の悪いところばかりに目がいくことを戒めているのです」 「でも・・・」  それ以上は言葉にならなかった。友美は胸のなかで小さな針が暴れているよ うな、そんな気がした。 「相手の小さな誤解を取り除くよりも、自分の中にある大きな誤解をまず自ら 取り除きなさい、という教えなのです。これは普段の生活でも生きる教えなの です」 「あの・・・自分の好きな人に浮気されても・・・私が間違っているんでしょ うか?神父さん・・・」  神父は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに元の柔らかな笑みを浮か べた。 「そうですね。では、ちょっと見方を変えてみましょうか。あなたは自分の愛 する人が誰からも好かれないような人だとしたらどうです?」 「そんなの・・・いやです」  答えながら友美は頬が少ししびれるような感じがしていた。 「難しい問題ですね。愛する人には常にかっこよくいてほしい、あるいは誰か らも愛されるような素晴らしい人でいてほしい。でも、他の女性にもてるのは 許せない・・・」  神父は軽く首を傾げてみせる。  友美は促されるように口を開いた。 「そうですね・・・矛盾してますね」  友美は泣きそうな顔で笑った。 「ええ、矛盾しています。でも、それでいいのですよ。人は生きている限り矛 盾を抱えているんです。抱えている矛盾が大きければ大きいほど、それは試練 となってあなたを強くするのです」 『強く』・・・その言葉に友美はびくっと身を固くする。 「私・・・強くなんかないです。強くなんか、なりたくないです・・・」 「ほう」  神父はずれた眼鏡を指で押さえながら友美を見つめつづけた。  友美は言葉を続けた。 「ずっと強くなりたいって思っていました。でも・・・強くなるほどあの人が 離れていくみたいで、私があの人を必要としなくなっていくみたいで・・・怖 いんです」  神父は何も言わずに友美を見つめていた。友美を、というより友美の向こう にある何かを見つめているように見えた。 「好きなんです。でも、好きだから・・・あの人の負担になりたくなくて・・ ・もっと強くなりたい・・・そう思ってたんですけど・・・」  友美は自分の声が絞り出すような、か細い声になっているのに気づいた。 「わたし、何言ってるんだろ・・・ごめんなさい・・・どうかしてるんです・ ・・」  友美は黙り込むと目を伏せた。涙が頬を伝うのがわかる。今までこらえてい た涙が堰を切ったように溢れはじめた。 「確かめてみましたか?」 「え?」 「たぶんあなたは、誰か別の女の人と一緒にいる彼を見かけた。でもそのこと を問いただすことができないでいる・・・違いますか?」  驚いたことに、神父の言ったとおりだった。ついさっき、如月の大通りを高 校以来の友人、篠原いずみと楽しげに歩いているりゅうのすけを見かけて、隠 れるようにこの教会に足を向けたのだった。 「・・・なんでもお見通しなんですね、神父さん」 「確かめてごらんなさい。あなたと彼の愛は祝福されるべき愛です。いや、も うすでに祝福された愛といってもいいでしょうね。あなたを・・・あなたの想 いを見れば、私には一目でわかります」  神父は続けた。 「あなたは強くなれる人です。そしてその強さはあなたの愛する人のためにも 必要な強さなのです」 「そうでしょうか?」 「もちろんですよ」  友美はふと目を伏せた。強く・・・なってもいいのだろうか・・・ 「天使も悪魔も、すべてあなたの心の中にいるのです。あなたの中の悪魔が愛 する人への不信を煽っても、それに耳を傾けることはありません。あなたはあ なたの信じる愛を全うすればいいのです。あなたのそばにいる天使の声に耳を 澄ませば・・・ほら・・・」  神父は、つっと右手を上げると入口の方を指さした。つられるように友美は その指の指す方に目をやる。  その瞬間、バタンと大きな音を立ててドアが開いた。夕日を背にした人影を 見た瞬間、友美は胸のなかで暴れていた小さな針がすっと溶けて消え去るのを 感じた。 「友美?」 「りゅうのすけ君!」  そこに立っていたのはりゅうのすけだった。 「どうしてここに?」 「いや、さっきここに入ってく友美を見かけたからさ・・・」  頬をかきながら、りゅうのすけが言う。 「いずみちゃん・・・怒ってるんじゃないの?」 「な、なんだ見てたのか。あ、で、でも、そんなんじゃなくってさ、ちょっと 買い物につきあってくれって頼まれて、それで・・・」  ばつの悪そうな顔であわてて言い訳をするりゅうのすけを見ているうちに、 なぜか友美の中には柔らかな気持ちが満ちていった。 「うん・・・いいの」 「ところで友美、ここで独りで何してたんだ?」 「え?」  友美は、言われて辺りを見回したが、神父の姿はなかった。そんなはずはな い、そう思ったが、年老いた神父はどこにも見えなかった。 「神父さんと・・・ううん、なんでもないの」  言いかけて友美はかぶりを振った。 「ね、明日のイブね・・・もう一度ここに来ましょ?」 「え?あ、ああ」 「それでね、二人でお祈りするの」 「ああ、いいよ」  友美はりゅうのすけの腕に右手をからませると、りゅうのすけの腕に頬を寄 せた。 「今日のお礼と、それから私達を・・・祝福してくださいって」  ふと見上げたステンドグラスの天使は、残照にきらめきながら友美に、そし て二人に優しく微笑みかけていた・・・ 〜Fin〜