DressingRoom Doujin
Home >> Doujin >> マリア様がみてるSS

So long, good bye

      1


 春休みは本当に短い。

 M駅は、平日の朝なのに人でいっぱいだった。わずかなお休みをちょっとで
も有効に楽しもうという若者であふれている。

 そんな中を、紅薔薇のつぼみの妹<ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン プ
ティ・スール>……いや、もう紅薔薇のつぼみ<ロサ・キネンシス・アン・ブゥ
トン>と呼ぶべきであろう福沢祐巳は、紙袋を胸元に抱えて歩いていた。袋
の中身はステーショナリーショップで見かけた、かわいいフォトアルバム。絵
日記みたいに上に写真、下にメモというつくり。上は普通のサービス版のほか
ポラロイドフィルムも挿せるよう大きめのポケットになっていた。最近増えて
きている蔦子さん写真の整理とかにちょうどいいかなと買い込んだのだ。

(もうあとちょっとで春休みも終わりかぁ……)

 休みが短いのが不満だったわけではない。というよりは、むしろ祐巳の中で
は「早く学校が始まらないかな」というほうの期待が大きかった。春休みの初
日こそ、祐巳はごろごろと惰眠をむさぼったりして休み気分を楽しんでいたが、
それが過ぎれば、お姉さま<グラン・スール>である祥子さまに会えないこ
とが寂しくて。三月の終わる頃には、もう学校が始まる日を指折り数えるよう
な感じになっていた。四月になって新学期になって学校が始まれば、また毎日
祥子さまに会えるのだ、と。

 電話でも何でもすれば、お出かけやデートに誘ったり、せめて声だけでも聞
けるにと思うのだが、このあたりは「押しが弱い」と白薔薇さま<ロサ・ギガ
ンティア>に言われたとおりというか、なかなか祐巳から電話をかけることな
どできなかった。たまに決断して電話するとそういうときに限って祥子さまは
不在。そして、祥子さまから電話がかかってくることもなかった。

 だからといってへこんでばかりもいられない。新学期になれば、祐巳も高校
二年生。このあいだまで祥子さまがそう呼ばれていた「紅薔薇のつぼみ<ロサ・
キネンシス・アン・ブゥトン>」になるのである。そして祥子さまは紅薔薇
さま<ロサ・キネンシス>……

(ほんとに私なんかがつぼみ<ブゥトン>……?)

 いまひとつピンとこなかった祐巳も、始業式が日一日と近づくにつれて不安
感が高まってきていたのだった。ずっと祥子さまのファンだった祐巳にとって、
姉妹となる前の祥子さまのイメージを忘れることなどできなかった。強く、
美しく、気高く、凛々しく……そして怖い。何人をもひれ伏させるような印象
が焼き付いていた。そしてそれはロザリオを受け取って妹となってからも、実
質的には変わっていない。いろいろな面を見せられてはいたが、それによって
魅力を増しこそすれ、祥子さまの印象が損なわれるようなことはなかった。そ
の祥子さまのいた場所<ポジション>に自分が入る……

 ふと、生徒会役員選挙のことが脳裏をよぎる。ついこの間のように思い出さ
れるあのイベントの行方次第では、もしかすると祥子さまが「紅薔薇のつぼみ」
でなくなって、そうして自分も「紅薔薇のつぼみの妹」でなくなって、ただ
の姉妹<スール>になる可能性もあったのだ。

 由乃さんや蔦子さんはああ言ってたけど、やっぱり祥子さまが負けた場合、
つまり、わたしたち二人が一般生徒(いや、わたしは最初っから普通の生徒な
んだけど……)として高校生活を送る日々もありえたのだ。結局そうはならな
かったものの、今でもときどき思い浮かべるその「起きなかった未来」のイメ
ージは魅力的で捨てがたかった。

 選挙に立候補された静さまは、優しくて美人で歌姫で……祥子さまと並べて
比べるなんてことはできなかったけど(だって、どちらにも失礼な気がし
て……)、少なくとも自分よりは全然薔薇さまと呼ばれるイメージがしっくりくる
方だと祐巳は思っていた。この差が一年やそこらで追いつけるわけがないのは、
同学年でこの春から白薔薇さま<ロサ・ギガンティア>となる志摩子さんを
見ていて痛感している。

(静さま……か……)

 その名を心の中でつぶやいたまさにそのとき。

「ごきげんよう、祐巳さん。お出かけかしら?」

 背後から透き通るような美声が祐巳の名を呼ぶ。不意に声をかけられて飛び
上がりそうになった。
 祐巳が振り返ると、そこにはジーンズ姿の蟹名静さまがいるではないか。

「ど、ど、ど」
「……どどど?」

 静さまは、名前のとおり穏やかな微笑みを浮かべながら祐巳を見つめていた。
(どうしてここに?)と口から出そうになるが、駅前なんだから別に誰に会って
もおかしくはない。とんちんかんな問いを、祐巳はあやうく腹の中にしま
いこんだ。

「あ……いえ、静さま!ごきげんよう」
「これから、何か用事はおありかしら?」

 そう聞かれたが、これからの予定などなかったし、昼前というよりは朝とい
う時間帯で、時間などいくらでもあった。

「いえ、特に何も。本屋さんとかまわってうちに帰ろうかな、ってぐらいです」
「そう、ちょうどよかった」
「え」
「ちょっとつきあって欲しいところがあるの」

 静さまはそう言うと、祐巳の手を取ってM駅の方へと歩き始めた。

「はい、祐巳さんの切符」

 お財布から取り出した切符を祐巳に手渡す。どこに行くのかは分からなかっ
たが、「ちょっとつきあって」というぐらいだから、まあ、たいしたことはあ
るまい。一足先に自動改札を通り抜けた静さまが、ホームに降りる階段のとこ
ろで手招きしている。祐巳はあわてて渡された切符を自動改札につっこむと、
出てきた切符をしまうのももどかしげにポケットに押し込んで小走りに駆け出
した。

 新宿駅で「ここで乗り換え」と手を引かれて上がったホームには、通勤・通
学用の電車とは違う、白と赤のスマートな車両が停まっていた。祐巳が目をぱ
ちくりさせていると、静さまは祐巳の疑問に先回りするように言った。

「そ。成田エクスプレス」

 言われなくても。海外旅行経験がゼロでも、一目でわかる。この電車に乗れ
ば、成田、つまり新東京国際空港まで乗り換えなしで行けるのである。ここに
きてようやく思い出したかのように切符を確認した祐巳は、その印字されてい
る運賃を見て驚いた。たしかにM駅から新宿までの料金どころではない。
 成田空港といえば海外。ただ、静さまはどうみても海外旅行にこれから出発
という出で立ちではなかった。まるで、これから友達といっしょに新宿か渋谷
へでも買い物に行こうかといった風なのだ。

(成田……成田……)

 さんざん考えて頭に浮かんだのが、お正月のテレビコマーシャル。

「えっと……その……お参りですか……?」

 どうやら微妙にツボに入ったらしい。静さまは急にうつむくと、肩をしばら
くふるわせていた。

「初詣……っていう時期じゃないわね」

 ジリリリと響く発車のベル。静さまはかろうじて笑い声を上げるのを押さえ
ると、祐巳の手を引いて乗り込みかけた。

「あ、あのっっ!」
「ほら、早く乗って乗って」

 これに乗ったら行く先は成田空港。唐突な展開に祐巳はたじろいだが、鳴り
続ける発車のベルに駅員さんのアナウンスがかぶさって、とん、と背中を押さ
れたような感じがして。

「あ、し、静さまぁ」

 次の瞬間、祐巳は車中の人となっていた。ドアが閉まり、列車はするすると
新宿駅のホームを離れていったのだった。


      2


 カタンカタンと軽やかな音を響かせながら、列車はスピードを上げていく。
静さまに導かれるまま、祐巳は車内を進んでいた。

「はい、これ」

 渡されたのは特急券。成田エクスプレスはその名のとおり、乗るには特急券
が必要である。印字されている番号の席まで来て、ふと疑問が頭をよぎった。

「ん?どうしたの?」
「どうして席が二つとってあるんですか?」

 渡された特急券は指定席のもの。間違いなく、静さまの分とあわせて二席が
続きで取られていた。あとで聞いたところによれば、成田エクスプレスは全席
指定だという。
 にしても、なぜ静さま一人のはずが二席なのか……

「ああ、これね。ま、日本を発つときぐらい、ちょっと贅沢してもいいと思わ
ない?」

 言われてようやく思い出した。静さまは、この春から音楽の勉強をしに海外
に行くんだった。スーツケースでも引っ張っててくれれば、一瞬で気が付いた
のに。

「い、……イタリアですかっ??」
「ふふっ。大声出さないの」

 たしなめられて我に返って、ばたばたとまわりを見渡すと、くすくすと笑っ
ている顔が目に飛び込んできた。これから日本を離れるらしい外国の人もいた
けど、やっぱりこっちを見て笑ってるみたいだった。

(きゃーー、きゃーーーーっっ)

 だ、だめだ……・祐巳は、顔が真っ赤になっているのが自分でも分かった。
席に座り込んで、大きく息をつく。しばらくスーハースーハーして、ようやく
赤面もおさまってきた感じ……

「落ち着いた?」

 静さまが苦笑しながら声をかけてくださる。

「出発の時ぐらい、隣を気にしないで静かな気持ちで出ようかなーって、二席
続きでとったの。一人で二席、ちょっともったいないかなって思ったんだけど
ね」

 でもまあおかげで祐巳ちゃんの席が確保できた、って笑って言った静さま。
二人の乗った成田エクスプレスが、品川をまわり、東京駅を離れる頃には、よ
うやく祐巳も気分が落ち着いてきていた。

「あの、静さま……本当にイタリアに出発するんですか?」
「ええ。どうして?」
「だって荷物も全然ないし」

 そう。そうなのだ。M駅で祐巳が静さまの誘いを「ちょっと買い物につきあって」
ぐらいに受け取ったのは、駅前に買い物に出るみたいな、ジーンズに白系の
長袖ニット、男物のジャケットを羽織って、という日常そのまんまの出で
立ち(といっても祐巳は静さまの日常はよく知らないんだけど……)が原因な
のだった。

「だって、もう向こうの寄宿舎というか寮の手配も済んでるし、そしたら手荷
物なんてない方が楽ですもの」

 言われてみればそのとおり、静さまがこれらイタリアに行くのは、旅行じゃ
なくて引っ越しなのだ。聞けば、必要な荷物は全部送ってあるとのことで、文
字通り、からだ一つで行けるらしい。

「手違いで荷物が着いてなかったらどうするんですか?」

 その質問に、静さまは笑って答えてくれた。

「まあ、そのときはそのとき。あっちで適当にかっこいい服でも買うことにす
るわ」

(うーん……意外と出たとこ勝負なのかも……あ、でも、日本で買うよりも現
地だけにお得だったり……しっかりさんなのかなぁ……でもでも、言葉とか通
じなかったらどうするんだろ……)

 行ったこともないイタリアの買い物事情を想像する。ふと気が付くと、静さ
まが祐巳の顔を下からのぞき込むように見つめていた。

「なるほど……これが祐巳さんの『百面相』なのね」

 その言葉に、顔から火が出そうになる。薔薇の館でさんざん言われても、い
まだに慣れることができない。でも静さま、どうして「なるほど……これが」って?
……しばらく考えてようやく、誰かが静さまに自分のことをあることあること(?)
吹き込んだのだ、と気が付いて。

「あ、あの……百面相って……」
「ああ。もちろん、白薔薇さま<ロサ・ギガンティア>からよ?聞いてはいた
けど、祐巳さんってほんと面白いわ」

 静さまがくすくすと笑う。祐巳は、今度ロサ・ギ……じゃなかった、聖さま
に会ったらぜったいに言っておかなければと思った。


      3


 ベンチに座る祐巳の目の前を、海外旅行に行く人、仕事で海外に行く人、そ
して、日本から帰る外国の人たちがわんさかと行きかう。
 国際空港の出発ロビーというのは、どうにも「お別れ」気分を盛り上げてく
れるものらしい。外国語のまじるアナウンスや、見るからに日本人じゃない人
たちの往来……この先にあるのは、どこか別の国……
 カウンターで搭乗手続を済ませて戻ってきた静さまが、祐巳の隣に座る。

「面倒よね、国際線って」
「あの……」
「ん?」
「な、なんでもありません……」

 祐巳は、何から話せばいいのかまったく見当が付かなかった。
 静さまがもうちょっと気が張っている感じだったら「がんばってください」
と素直に言えたとも思うのだけれど、本当にそのへんにちょっとお出かけって
感じで、「がんばれ」も何もない感じだったのだ。

「……」

 言葉に詰まっている祐巳に、静さまは、ぷうと唇をとがらせながら言う。

「寂しいなぁ……せっかく祐巳さんを連れてきたのに、お別れの言葉もかけて
くれないの?」

 拗ねたような顔の静さま、はじめて見たかも……じゃなくてっ!!

「ごめんなさい。あ、あの……っっ!」
「冗談よ」

 いいながら、静さまが笑う。

(ごめんなさいっ!でも、ほんとうに全然ピンと来ないんですっ)

 もうすぐ、ほんとうにすぐ、静さまは日本を離れる。そして、しばらくは…
…もしかすると何年も……帰ってこないかもしれないのだ。言葉が出てこない
祐巳の肩を、静さまはそっと抱き寄せる。そうして、やさしい囁き声。

「いいの。ほんとはね、一人で旅立つのが不安だったの。こんなところまで引っ
張り回しちゃってごめんなさい」

 静さまは、両親の見送りも断固として断って家を出てきたらしい。日本を一
人で離れることもできずに、海外で長期間、音楽の勉強なんてできるわけがな
い、というのが静さまの決意だった。

「でも、いざとなるとやっぱりだめね」
「え?」
「リリアンのことばっかり思い出しちゃう」

 祐巳は、「白薔薇さま<ロサ・ギガンティア>のことですか?」って口から
出そうになるのをなんとか押さえた。けれど、すっかり顔に出てるらしい。

「ふふっ。白薔薇さま<ロサ・ギガンティア>だけじゃないわ。クラスのみん
な、祥子さん、志摩子さん、それに祐巳ちゃん。だから、祐巳ちゃんがここま
で付き合ってくれて、ほんとうに嬉しいの。だから、私に気を遣ってくれなく
てもいいんだから」

 祐巳は黙ってうなずいた。
 それにこたえるように静さまはやさしく微笑みながら言った。

「祐巳ちゃんがここにいてくれるから、わたしはこうやって落ち着いた気持ち
でイタリアに行けるのよ」
「静さま……」

 静さまの言葉が、ゆっくりと祐巳にしみ通ってくる。ああ、もうじき静さま
は日本を旅立つのだ、と。さっきまでまるで実感がわかなかったのが不思議な
ほどに。

「でも、向こうではあなたのことを思い出しながら泣いて暮らしそう」
「へぇ?」
「う、そ、よ」

 あわてた顔の祐巳に、そんなに後ろ向きじゃないわ、と静さまが笑った。

「静さま、歌のことで頭がいっぱいで日本のことどころじゃないですよ、きっと」

 祐巳の言葉に静さまは、きっとね、とだけ。

「あーあ」

 不意に、ため息というか嘆息というか、静さまが大きく息を吐く。

「??」
「祐巳さん、妹にしたかったなぁ……」
「え、ええええ???」
「そしたらリリアンの高等部を卒業するまでずっと祐巳さんを可愛がって暮ら
したかもしれないのに」
「いや、その、あの……」

 突然の思いもよらぬ発言に、わたわたと両手を振ってしまう。

「ふふっ、わかってるわよ。祐巳さんって、ほんとに祥子さん一筋だもんね」

 あうぅ。あらためて人から言われると照れくさい。

「でも、ちょっとだけ考えるのよ?もうちょっと早く私が思いきっていれば…
…もうちょっとだけお掃除の終わった祐巳さんと長く話す機会があったら、も
しかすると……ってね」

 ふうと小さく息をつくと、静さまは、「喉、乾いちゃった。ちょっと待って
てね」と言って、自動販売機の方に歩いていった。まるで舞台の上でそうする
かのように、優雅に歩いていく。
 その後ろ姿を見つめながら、祐巳の頭の中には、いろんなことがごちゃごちゃ
とわいてきていた。選挙の時のこととか、バレンタインデーの時のこととか。
それに、選挙よりもずっと前の、音楽室掃除の後に交わした会話のことも、
急に記憶の沼からあぶくのように浮かんできた。それまでどうやっても思い出
せなかったのに。
 妹にしたかった、という言葉は意外だった。けれど、志摩子さんに似たよう
な話を持ちかけたときとは、静さまの雰囲気が全然違っていたように思う。社
交辞令かな、とも思ったけど、リリアンの生徒であれば、姉妹<スール>につ
いて、思ってもいないことは決して口にすることはない。
 戻ってきた静さまは、缶を二つ手に持っていて。

「はい、ミルクティーでよかったかしら」

 そういって一本を祐巳に手渡した。
 この間の生徒会役員選挙から今まで、ほんの短い間だったけど、やっぱり静
さまのことは好きだった。嫌いじゃない、とか、好ましい、とかじゃなくて、
好きと表現するのがいちばんしっくりくるぐらいに、好き。


      4


 ロビーにアナウンスの声が響く。
 静さまが、すっと腕時計に目をやる。つられて祐巳はまわりを見渡して時計
を探した。時刻は正午をすこしまわったところ。

 静さまは、祐巳をきゅっと抱き寄せる。時間なのだ、と分かった。

「ごきげんよう……」

 そうして、まるで学校帰りに誰かと下駄箱で待ち合わせているみたいに……
ちょっと教室に忘れ物を取りに戻るときみたいに……。そんな雰囲気で片手を
上げると静さまはゆっくりと歩き始めた。

(あ、あ、……)

 何か言わなくちゃ、何かしなくちゃ、そんな気持ちだけが頭の中をぐるぐる
とまわる。涙が急にこみあげてきて、世界がぼんやりと見えてきて……

「静さま……」

 涙混じりの祐巳の声に、静さまが歩みを止めて振り返る。
 考えがまとまらないまま呼び止めた祐巳だったが、胸元の紙袋のガサガサと
いう音が……

(あ、そうだ!)

 思った瞬間。

「これ、よかったら持っていってください」

 ずいっと祐巳が差し出した紙袋は、プレゼント用でも何でもない、ふつうの
紙袋。
 でも、それでも何もしないで静さまを見送ることはできなくて。
 静さまは「開けていいかしら?」と断ってから、まるできちんとプレゼント
用に包装されたもののように丁寧にテープを剥がして袋の口をあけた。中から
出てきたのは、薄紅色の小冊子のような……

「アルバム?」
「そうです。えっと……あの……日本に帰ってくるときは、これを写真でいっ
ぱいにしてきてください。それで、お話もいっぱい聞かせてください」
「うん、わかった」

 静さまはにっこりと笑うと、アルバムを紙袋にしまいなおして、胸元にきゅっ
と抱きかかえた。
 祐巳はこみ上げてくる涙を抑えられずにいた。
 静さまは、最後にそっと祐巳の両肩に手を置いて、頬に唇を寄せた。
 触れるか触れないかの、かすかな口づけ。
 涙に濡れた祐巳の頬をそっと指でぬぐうと、静さまはゆっくりと背中を向け
た。その向こうにあるのは、出国ゲートへと向かう下りエスカレーター。

「いってらっしゃい」
「いってきます」

 ごきげんよう、でも、さようなら、でもなく……ただそれだけ。本当に、ま
るで近くの本屋さんにでも出かけるふうに、静さまの姿はエスカレーターに導
かれ、消えていった。

      5


 しばらくエスカレーターを見つめていた祐巳だったが、「うんっ」と一声小
さく気合いを入れると、静さまの消えたエスカレーターに背中を向けて歩き始
めた。

 てくてく歩きながら何気なくジャケットのポケットに手を突っ込んだ祐巳は、
そこに何か入っているのに気が付いた。

(何だろ?)

 それは手帳から一ページ切り取ってたたんだ感じのもので、表には「祐巳
ちゃんへ」とあった。静さまがいつの間にか入れていたらしい。開けるとそこに
は、ほんとうにいつ買ったのやらという感じの、M駅までの帰りの切符が入っ
ていた。そして包んでいたメモ用紙には、ひとこと「またね」とだけ。

 祐巳は泣きそうな気持ちをぐっと押しとどめると、小さくもう一度だけ「いって
いらっしゃい……静さま」とつぶやいて、ふたたび歩き出した。

 ガラス越しに見える春の空はすこし霞んでいたが、飛行機雲を浮かべるその
空は、ただただ、青く、おだやかだった。



▲page top▲